サイパンはアメリカの一部です。30 歳代での出張が多く、回数は 14 回と出張した中では 二番目に多いところでした。その当時は、JAL便も飛んでいて、日本からの観光客も多く、 中心街のガラパン地区は活気があり、それなりに楽しいところでした。慣れてくると、 日本から現地のトヨタレンタカーに連絡して車の予約を入れておいて、サイパン空港に 着いたら予約した車に乗って自分で運転をして、颯爽と観光客がバスで移動する前を 通って、宿舎へ行ったりしました。
サイパン便には芸能人も乗っていて、見かけたのは、RIKACO(2 回)、野々村一家、 田代まさしなど。さらに芸能人との遭遇は、ロスアンゼルスからの帰国便で、俳優の 伊原剛志が前の席に座っていました。ニューヨークの空港では、デビ夫人が普通に列に 並んでいました。2015 年ホノルルからの帰国便に席一つ空けて、東尾理子が座って いました。空いた隣の席に「荷物を置いてもいいですか」と言われ、「いいですよ」と返事 したのですが、化粧をしていなかったためか一般の女性とあまり変わりませんでした。 それよりも、タイからの夜行便の帰国便で、通路 2 つ隔てたところに目を引く女性が座っ ていました。成田に着くと、搭乗口のところにカメラマンたちが待ち構えていてパシャパシ ャと写真を撮っていました。後で判りましたがそれは、女優の清水美砂でした。当時(1994 年)は 24 歳くらいだったと思いますが、既に色々な映画に出ていて有名になっていました。 私は直ぐ後を歩いて出ていったので、Friday されて隠れた彼氏?みたいに思ったカメラマ ンも居たかもしれません。(笑)
さて、サイパンの話に戻しましょう。今までの海外出張の最長期間がサイパンの 1992 年 2 月から 4 月までの 68 日間でした。33 歳の時でした。サイパンには、MHIとして 合計 8 台のエンジンを納入しました。18V40/54A 機関を 4 台納入したのは入社前のことで、 新たに 18V52/55B 機関を2台毎、2期に分けて納入したのですが、最後の 2 台を納入する 時で、工事後半から引渡しまでの期間居たのが、その 68 日間でした。
未だ若かったこともあり、現場で設計がした仕事は、部品探しなどでほとんどは OJT(On the Job Training)という感じでした。サイパンでは水が貴重で、サイト 事務所では雨水を溜めてトイレや手洗いに使っていました。飲み水はボトルで近くの 水売場に行って買っていました。左ハンドルの車を運転して買い出しに行くのが日課に なっていました。要は若造だったので、小間使いでチョコチョコ動いていました。 昼飯は、町中の日本食レストランに頼んで仕出し弁当を毎日配達してもらって食べて いました。仕事を終え、手洗いは例の雨水で、コーヒーカップもボトルの水でちょっと 濯いでお茶を入れたりと、よくよく考えると何と不衛生なことをしていたかと思います。 思い出すのは工事上のことより、アフター5のことが多くあります。リゾートアイランドと いうこともあり、景色は良いし、休日は車でドライブしたり、シュノーケリングで海を 泳いだりして、色々な熱帯魚の鑑賞などもして楽しく過ごしました。
当時の宿舎は、S 建設がFTK(Full Turn Key)工事の土建を担当していたこともあり、 その恩恵でコンドミニアムタイプの2F建てのバンガローを格安で貸してくれていました。 1 棟に3人毎住んでいました。その場所は道をはさんで対面に日航サイパンホテルがあり、 たまにホテルの土産物屋やプールにいって遊んだりもできました。ほとんど観光客 気分?!(笑)そのコンドミニアムでは自炊生活をしていました。ガラパン地区には、 島最大のジョーテンショッピングセンターというのがあって、色々な食材を売っていた ので、非常に重宝でした。特にアメリカといえば、バドワイザービールで、1缶1ドル しない安い値段で、いつもケース買いしていました。毎日冷たいビールをあびるほど 飲むのが嬉しかったです。また、人の拳大の大きさの蟹が1杯でも1ドルちょっとだった ので結構嬉しくて、日本では滅多に食べられない蟹をまるごと味噌汁仕立ての鍋に入れて 食べたりしていました。蟹の甲羅を開いた味噌がまたこの上なく美味でした。
サイパン島は第二次世界大戦で日本人が玉砕し、民間人も米兵に捕虜となるのを嫌い、 崖から日本の方向に向かって、万歳と言いながら自殺をしたといい、そこがバンザイクリフ として残っています。そんな話なので、浮かばれない方も多く居たのでしょう、滞在中には 夜中に2度ほど金縛りを経験しました。ある晩、突然目が覚め、天井が目に入るとなんか異 様な感じで、意識がはっきりしていて、体を動かそうとしても全然動かないではないですか。 足や手に力を入れて動かそうと試みても何ともならない。そういう状態が暫く続いて、 怖くなって頭の中で、“南無妙法蓮華経”や“南無阿弥陀仏”を唱えていたら、漸くして手 が動き、足も動くようになり、寝返りを打ったのでした。その後は直ぐにまた眠りに入った ようでした。そんな事もあってか、その後サイパンへ行ったときには、バンザイクリフに 御神酒としてワンパックのお酒を供えて供養するのでした。
現地工事中は MHI の人たちの他に下請けの業者の人たちも多く、時には合同で夕食を 摂って盛り上がっていました。夕食後はお決まりのコースとしては、いくつかのグループに 分かれてガラパンにあるスナックやショーパブなどに繰り出していきました。 当時は色々な店には、ほとんどフィリピン人が出稼ぎにきていました。アルコールを 飲みながら談笑していましたが、相手はタガログ語と英語で、こちらは日本語と英語だった ので、いろいろなタガログ語を聞いてそれを日本語に訳すようにして、あいさつや面白い 言葉を書き記して辞書のごとく A4 の用紙にまとめ、印刷して関係者に配ったりしました。 25 年後にたまたま当時一緒に仕事をしていた人と会ったらその辞書のような紙を今でも 持っていると言われびっくりしました。
当時帰国したら妻からフィリピン人の女性から電話が掛かってきたと言われびっくり しました。多分酔っ払って電話番号を教えてしまったようでした。まだ若かったので 自宅の電話番号そのものを教えたようでした。その頃は携帯電話などなかったので。 教訓を得た思いでした。