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MKPエンジニアリング合同会社

海外出張エピソード《No.2》目から鱗のカルチャーショック! ~リベリア続編~

目から鱗のカルチャーショック! ~リベリア続編~

前回は現地調査時のエピソードでしたが、今回はリベリアでの現地工事中の エピソードです。

リベリアには、調査、工事、引き渡しなどで計4回出張に行きましたが、2 回目以降は 少し慣れたこともあって、入国審査は例の small souvenir を活用してスムーズにパス しました。

2 回目のリベリア入りはスムーズにいき、闇夜のカラス状態も慣れました。ベンも予定 通り迎えにきてくれて、迎えの車のパジェロ(三菱商事ということもあってか三菱車でした。 また当時はパリ・ダカールラリーでパジェロが活躍していたので人気があった)に乗って、 一路ホテルアフリカへ向かいました。相変わらずの暗闇の中を走っていると、車の後輪の タイヤがパンクしてしまい、途中でタイヤ交換をするために停車しました。ベンが作業を するのを何か手助けしようかと思い外に出ましたが、特に手助けすることもなく、作業を 見ていました。当然周囲には街灯などなく真暗でしたが、その夜は月が出ていて、 月明かりに目が慣れてくると、作業がよく見れました。 しばらくすると、何か変な雰囲気を感じ、周りを見てみるとゾっとしました。ベンの作業を 見ている多数の目がありました。そうです、知らない間に周辺の住民が野次馬のように 集まってきて周りを取り囲んでいたのでした。止まった場所は集落の近くで、テレビも 電気もなく寝静まっていたところに、何やら面白そうなものがあると勘違いして 物見遊山で集まってきたと思われます。

4 回目のリベリア入りはもっとスリルがありました。その時は現地工事の最後で試運転に 立ち会うためで、既にSV達は現地にいて、一人での出張でした。
4 回目ともなると、入国した際の臭いも懐かしく感じていました。スーツケースを取り合う タクシーの運ちゃんの対応も自分で蹴散らして、ベンを待っていました。 暫く待っていましたが、ベンは来ず、その当時は携帯電話などというものは当然なく、 連絡の取りようもなく待つしかありませんでした。しかし、待てど暮らせどいっこうに 来る気配がなく、夜も段々と遅くなってきて、空港の到着ロビーも人数が少なくなってきて 心細くなってきていました。

もしかしたら、到着日を間違えているのではないかと思いましたが、その場合は、 待っていても無駄だと思い、意を決してタクシーを使ってホテルへ行くこととしました。 タクシーの運ちゃんにホテルアフリカまで行きたいがと言うと、OK、OKと二つ返事で 言ってくるので、運賃を聞くと 100 米ドル以上と吹っかけてきました。それは高過ぎると 言ってネゴって 60 米ドルくらいで決めたと思う。当然タクシーにはメーターなど付いて おらず、すべてネゴベース。それでも 60 米ドルというのは、現地人にしてみれば、 かなりの高額でした。

空港からホテルアフリカまでは、70 kmほどあり、深夜のタクシーに乗り込み、延々と1 時間 30 分くらいの旅でした。しかしながら、真暗な道を見も知らないリベリア人と 2人だけで狭い空間に延々と長旅するというのは、最初は不安で、運ちゃんに片言三言 英語でしゃべった事を覚えています。このままどこかへ連れていかれて行方不明に なっても、分らない状態になると思うと、不安からか、いつもに無くタクシーの運ちゃんに 話しかける自分が居ました。 そうこうしていると、飛行機の長旅の疲れが出て、寝入ってしまいました。ふと目をさます と、明かりが見え、見覚えのある看板などをみて、モンロビア市内を走っていることが 判って一安心。市内を通り過ごして、しばらく走ったら、白い六階建ての建物が見えてきて、 やっとホテルアフリカに着きました。何事もなく着いてよかったと一安心しました。

翌朝、ホテルのロビーでベンと会ったら、時間通り迎えに行ったが、見つからなくて、 フライトを変更したのかもと思ったと呑気なことを言っていました。タクシーでホテルへ きたが、一歩間違えたら、行方不明になっていたかもしれないんだぞとクレームしましたが、 sorry でおわり。

サイトへ行くと、現地工事も終わりに近づいていると感じて、試運転ができるだろうと 安心しました。サイトでは、現地所長のO氏、営業のS氏、据付SV,配管SV、 大洋電機の電気SVなど日本人は5,6人居て心強かったです。
(注:SV とは Supervisor のことで監督者や管理者のこと)

ある時、現場にいて手持無沙汰だったので、みんなの手伝いでもしようかと思い、 ラジエータのファングリルの金網を固定する作業が残っていたので、現地所長のO氏に レンチを借りて作業を始めました。しかし、炎天下の元、ラジエータの上は、照り返しも 強く、人間卵焼きができるほど暑かったので、程なくすると作業能率が下がってきました。 そこで、近くで作業をみていたリベリア人作業員を呼びつけ、代わりに金網取付作業を するように指示して、レンチを渡したのでした。

コンテナ事務所に戻り、汗を拭いでしばらくしてから外に出ると、現地業者の会社の営業 みたいなのが、作業員用の昼食を運んできました。大きなタライを頭に載せて、大声で 叫んで作業員に昼飯だぞーと言っているようでした。

そうすると、今まで作業をしているワーカーの数がこんなにもいたのかと思うほど多数の ワーカーがあちこちから出てきて、昼飯にたかってきたのでした。タライは昔懐かしい 感じのブリキのもので、直径1mくらいで、地面に置かれるとワーカー達はタライの周囲に 車座に座って、タライの中の食事を手掴みで食べ始めました。ちょっと興味があったので 近寄って、タライの中をみたら、大量のコメみたいなものと魚、野菜がごちゃまぜに なっていて、汁が掛かっているもので、日本なら犬にあげるようなもの、または 残り飯みたいな感じでした。

ワーカー達の隣に立ってみていたら、お前も食べてもいいぞ、うまいぞみたいなことを 言われましたが、そこは丁重にお断りしたのでした。現地人はこんな飯しか食べていない のに、筋骨隆々の体をしていて感心したのでした。(カルチャーショックを受けた!)

食事が終わり、休憩時間が過ぎ、午後の作業に入ったので、午前中のラジエータの 金網取付はどうなっているか、ラジエータに上ると、作業を指示したワーカーが 見当たりません。作業も完了しておらず、ワーカーを怒ろうと探したが、皆同じような 黒い顔をしていて区別がつきません。 しかたなく、コンテナ事務所に戻り、O現地所長に話をすると、貸したレンチはどうしたと 言われ、あっ、しまった!と思ったのは後の祭り。結局、レンチは戻ってこず、 そのワーカーが町中のショップに売って生活費に化けてしまったのだろうと思いました。

サイトでは、いろいろな事が起きました。1 日の作業が終わり、帰宅時間になった時、 現地のワーカー同士が殴り合いの喧嘩をしていました。それは、日本から輸送されてきた 機器を梱包していた木箱の木材を奪い合っていたのでした。家に持って帰れば、いい燃料に なるしタダだし、ということで必死に争っていました。日本人には考えられない光景でした。

宿泊は、前述のとおりホテルアフリカでしたが、毎日仕事が終わってホテルへ帰ると、 ロビーの一角にバーがあり、そこでカウンターに座り、冷えたビールをクイッと引っかける のが日課になっていました。日中暑い中、作業をしてからのビールはこの上もなく、 美味しく感じました。カウンターに座っていると、着飾ったお姉さんたちが近寄ってきて、 何やら言ってきました。毎日だったので、そのうちなんとなく仲良しになり、駄弁って いたりしていました。ただ、お姉さんたちに飲み物を上げるでもなく、からかい半分で、 タダでキャバクラ気分を味わえたりしました。(笑)

後日ですが、セネガルへ出張して、ホテルのバーで飲んでいると、黒人の女性が近寄って きて、私はあなたを知っているよ、というではないですか。黒人の女性に知り合いはいない と話すと、あのリベリアのホテルのバーに居たでしょと言うではないですか。ビックリで 何とセネガルにまで出稼ぎにきていたのでした。

その当時は、日本への報告はFAXで手書きの報告書をホテルの通信室に夜に行って 発信していました。FAXを送るのにかなりの時間がかかり、結構通信エラーになって 初めからやり直しみたいで、待っている間手持無沙汰だったので、通信室のおばさん と駄弁ったりしていました。こういうのは、O氏の得意とするところ。 そして、そこで米国ドルを現地通貨のリベリアドルに換金してくれるとのことで、かなり 良いレートで換金してもらいました。リベリアドルは紙幣がなく、すべてコインであり、 最大が1ドルコインでした。今の日本の 500 円硬貨よりも一回り大きく、重いものでした。 レートがよいこともあり、100 米ドルを換えると大変で飛行機の中でもらった茶巾袋 みたいな袋に入れて持ち歩いていましたが、何ともずっしりしていて重いこと!

SV達は、長期滞在ということで、ホテルアフリカのバンガローみたいなところに 居ました。日本から送られてきた食材も多量にあり、自炊していたので、ちょくちょく お邪魔して晩飯はごちそうになりました。 沖縄出身のSVのM氏は、普段は漁師をしているということで、サイトからの帰り道に 少年が魚をぶら下げて売っているのを買って、バンガローで刺身にしてくれて、 食べたりしました。

このM氏を配管SVとして採用する際、金沢工場で面接をしましたが、初めて会った時は ビックリしました。頭は五分刈りで剃りが入っていて一部青く、服装はボンタンみたいな ズボンを履いて、一見暴走族風な感じでした。年齢を見ると同じ歳でちょっと親近感が 沸いたが風貌に圧倒されて怖いイメージが残っていました。しかし、得てして現場で 付き合ってみると、結構いい感じの兄さんでした。

バンガローでみんなで食事をしていると、現地の行商のオジサンたちが、土産物を 売り込みにきました。皆からかい半分でいましたが、オジサンたちが出したものは、 象牙の彫り物でなかなか見栄えのする良いものでした。40 cmくらいはあると思われる 象牙に紋様が施されていて、1本数万円だったので、SVは結構買った人が多かった。 日本で買えば、桁が違うと思われる。私は若造でお金もそれ程持っていなかったので、 印鑑にできるような小さな象牙を買いました。皆スーツケースに忍ばせて帰りましたが 現在ではワシントン条約で象牙を日本に持ち込むのはご法度となっています。

SV 達と和気あいあいで生活するうちに月日が経ち、工事も進んで漸く試運転ができる までになりました。当初は日本の ODA 案件で ETK 工事(Erection Turn Key: 土建工事 以外の設計・調達・据付工事)と思っていたら、現地調査をすると、既設の動かなくなって いたエンジンなどの設備の残骸物が多々あり先ずはその撤去から進める必要がありました。

しかし、動いているエンジンがあり、撤去する範囲を調査してコンサルの EPDCI (電源開発インターナショナル)に報告し、客先の LEC(リベリア電力庁)に申し出て 協力してもらいました。また、現地工事をする上で、土建業者や据付業者を現地で探して 契約したところ、事前に建設用の機械(クレーンやフォークなど)の有無を確認した ところでは在ると言っていましたが、実際の工事では老朽化した機材で現地工事を するにはとても無理と思えるような代物しかありませんでした。ただし、人工は多数居て 力仕事は大丈夫ですが、配管工事や配線工事などは SV が付きっ切りでないとダメでした。

試運転に際しては、先ずエンジンの基礎周囲 4 か所の盛り塩をして、その上に一升瓶の 日本酒をかけて回り、厳かな儀式をしてからエンジンの起動に入りました。 初めてこの儀式を体験し、その後のプラントでは毎回起動前に同様の儀式をしたのでした。 エンジンの傍に居て起動の様子を見ていたのですが、プシューという音とともに エンジンがゆっくり回り始め、ゴロンゴロンという次にやがてカン、カン、カンという 甲高い音と共にエンジンの回転数が上がってほんの数分で定格回転数の 720rpm に 到達しました。それまでの SV 達の工事の苦労が一瞬で報われた感じで、初めての経験で 感動して涙が出たのを覚えています。その後、同様な経験をする度に感動をしてきました。

リベリアから帰る際、空港のロビーでO氏と一緒に待っていると黒人の小さな女の子が 近づいてきて、O氏に向かって“Are you Chinese?”と言うではないですか。O氏の風貌は 日本人から見ても中国人っぽい感じだったので、笑ってしまいました。でも後から考えたら、 現地の女の子が日本人を見分けるわけはなく、東洋人は皆中国人という発想は そういうものだと思いました。

ここで、O氏のエピソードで、忘れられない事件を紹介します。 とある冬の寒い朝、会社に出勤し、我々の設計のところにO氏がきたら、何かいつもと 違う感じがしたので、マジマジと顔を見ると、口元が赤いではないですか。寒さから唇が ひび割れていて血が出ていると思い、注意してあげました。O氏は手でその血を拭いた のですが、それを見て怪訝な顔をしました。 あっ!と一言言うと、ティッシュは無いかというので、1 枚あげると唇を必死に拭いて、 拭き終わるとニッコリした顔で、朝起きて暗がりの中リップクリームを付けたと 説明したが、何と奥さんの口紅と間違えたかもしれないとの話でした。 そうです、赤かったのは口紅だったのです。皆さん、想像してみてください。中年の50 過ぎの中国人風なおじさんが、出勤するのに電車に乗っていて口紅をして隣に立って いたら、どうしますか?変なおじさんだと思い、その場から少しずつ遠ざかるでしょう。 平然と電車に乗っていたO氏を想像するだけで笑ってしまいました。

4 回目のリベリアは、1989 年 4 月 9 日~22 日で、31 歳のときでした。

グーグルアースからコピーした現在(2015 年)のホテルアフリカ。昔から比べるとずいぶん周辺の建物が増えた感じ。
ホテルアフリカのロビー(最初の出張時撮影)