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MKPエンジニアリング合同会社

海外出張エピソード《No.1》原住民に追いかけられた事件 ~リベリア~

原住民に追いかけられた事件 ~リベリア~

私の最初の海外出張先はリベリアという国でした。リベリアと言ってピンとくる人は 少ないと思いますが、アフリカの西側で赤道のちょい上くらいに位置する国です。 以前ではエボラ出血熱で有名になったので、聞いたことがあるかもしれません。 リベリアという国は米国の解放奴隷がアフリカへ渡って作った国で、首都のモンロビアと いうのは、モンロー大統領の名が由来とのことでした。

私がそこへ行ったのは、日本の ODA(政府開発援助: Official Development Assistance) でディーゼル発電設備を供給する仕事で、現地調査のためでした。 日本からベルギーのサベナ航空の飛行機に乗って、ブリュッセルで乗り換えてリベリアの 首都のモンロビアへ延々20 時間程度の長旅でした。ブリュッセルに着いてから乗り換えの ためにアフリカ行の飛行機のゲートで待っていると、時間が経つにつれ、周りに黒人の 人数が次第に増えてきて、それとともに何ともえもいえぬような臭いがしてきて、 いよいよアフリカに行くのだという期待感が湧いてきました。 サベナ航空に乗ってから、途中、ガンビアのバンジュールとギニアのコナクリという 空港にトランジットのため着陸して、乗客が降りていきました。トランジット中は、 航空機のドアが開いているため、徐々に機内の温度が上昇してきて、アフリカの空気を 感じてきました。と同時にハエの侵入に伴い、殺虫剤みたいなものがスプレーされて ビックリしました。

そして、愈々リベリアに到着です。飛行機のタラップを降りて、地面に足を着けるときは、 アフリカの大地への第一歩という感じで、アポロ 11 号のアームストロング船長の言葉で ある「この一歩は私にとっては単なる一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」 みたいに「この一歩は私にとって大きな一歩であり、会社にとっても偉大な一歩である」 な~んて考えはなかったが、ちょっとした感慨というものがありました。

外に出るとすでに夜遅くなっていましたが、ムッとした暑さと湿気を感じました。12 月 だったので、日本を出るときは冬支度で革ジャンを着ていましたが、それを脱いで トレーナーも脱いでシャツと肌着の 2 枚が上半身。下はジーパンでしたが、ちょっと 厚手のもの。この状態で入国審査の列に並んだのですが、当時はエアコンも無い部屋で 長蛇の列で、待っている間に、汗だくの状態になりました。その後の出張では、扇子 (ダイソーで購入)を持参して、このような列待ちでは扇子を扇いでいますが、当時は 手団扇でした。漸く自分の番となり窓口に行くと、やはり日本人は珍しいのか、色々 聞いてきて応答していましたが(内容は覚えていないが)最後に一言、私に small souvenir は無いかと賄賂を要求してきました。

しかたないので、当時日本で流行っていたチルチルミチルの 100 円ライターを上げたら、 その審議官はニコッと笑って、パスポートに入国スタンプを押して、OK と言って パスポートを返してくれました。(これは使えると思い、その後 3 回リベリアに 行みましたが、この 100 円ライター土産が功を奏し、スムーズに入国ができました。 今では、ライターを持って飛行機に乗るのは駄目だけど。^0^;)

それからスーツケースを受取り通関を終え外に出るとこれまたビックリの光景でした。 「闇夜にカラス状態」! 暗闇の中に出てくる人を待ち受ける多くの黒人がいて、目玉、歯、 手だけが無数見えて、ざわざわしている状態でした。夜遅くにも拘らず大勢の人が待ち 構えていて、スーツケースを転がしながら出ていくと何やら話かけながら近づいてくる 黒人がいっぱいいて、私のスーツケースを持とうとするではないですか。しまいには、 黒人同士が罵りあいを始めました。当方はスーツケースを取られまいとして必死な状態 でした。

出発前に聞いていた話では、三菱商事の現地スタッフのベン・ジョンソンという人間(あのオリンピックで 100m走の金メダリストでドーピングが発覚してメダルを はく奪されたのと同姓同名)が、迎えにきてくれるということでした。大仏のように 大きな体なので直ぐ判るはずとのことでしたが見当たりません。黒人たちの罵声と 喧騒の中、更に熱気ムンムン、臭いプンプンの中、暫く待っていると、巨体を揺すりながら 笑顔で近づいてくる人間がいて、それがベン・ジョンソンでした。遅れたことを詫びたあと、 周りにいた黒人たちを蹴散らして、私のスーツケースを持って、駐車場に向かいました。 後から判ったのですが、お互い罵りあいながら私のスーツケースを取ろうとしていたのは、 タクシーの運ちゃんで客の取り合いをしていたのでした。

ベン・ジョンソンの運転する車でホテルに向かい始めましたが、空港を出ると直ぐに 街灯がなくなり、真っ暗闇の中を猛スピードで走っていました。しばらくすると、暗闇の 中で目が慣れてきて、月明かりで周りの様子が判るようになりました。鬱蒼とした 森みたいなところや何もない平原みたいなところを通って1時間半ほど掛かってホテルに 着きました。

ホテルの名は「ホテルアフリカ」といい、何と大胆な名前のホテルだと思っていたら、 結構新しく白い 6 階建ての立派な感じのホテルでした。カジノもあり、ある晩サンダルを 履いてパジャマみたいな部屋着で入ろうとしたら、入口に居たタキシード姿の店員に 止められ、入店拒否されました。店員からは、シッシッと追い払われた感じで、 この日本人は何と非常識な奴だと思われたに違いなかった。(グーグルアースで見ると、 ホテルアフリカは現在では廃墟のようになっている)

ホテルの部屋は結構広くてベッドと机だけというものでした。壁は真白で、ちょっと 不気味感がありました。ある時昼間ベッドに横たわっていたら、天井をヤモリが歩いていて ちょっとビックリしました。ある日、机の上に英語を含め 5 か国語の辞典(日常会話用で 旅行者用のもの)を置いて部屋を出て、戻ってきたらそれが失くなっていました。あっ、 やられた!と思ったが後の祭り。リベリア人にとってみたら、初めて目にする本で珍しさに 失敬してしまったのだろうと思いました。 ホテルにはプールがあり、誰もいない貸切状態で泳いでいました。プールの外に出ると すぐ隣が海で、そのまま海に出て泳いだりしました。初めての大西洋ということで、 ちょっとした感慨がありました。波が高かったので、浅瀬でちょっと浸かった程度でした。 沖の方まで行って、もし溺れたりしたら誰も助けてくれないし、出張できていた日本人が 海で溺死なんて新聞に載ったらさぞかし、馬鹿な奴だと笑われるであろうと思うと 怖気づいたのでした。

さて、仕事の話に入りましょう。現地調査ということで、先ずは港湾設備のチェックの ためにリベリア港に行きました。一緒に出張に行った O 氏(これ以来腐れ縁となる仁)と 例のベン・ジョンソンと共に港へ向かいました。港へ入る際には、ベンがゲート番に何やら 話をして許可をもらって入りました。意外と広く、車でちょっと走って漸く岸壁に 着きました。岸壁はコンクリートが所々欠けていて華奢な感じでエンジン 60 トンを 置いたら壊れてしまいそうでした。 港のクレーンも錆錆でエンジンを吊ったら海に落としてしまうのではないかと感じました。 それでも港を管理している事務所の人間に聞くと、60 トン以上のものを吊って降ろした ことがあり、問題ないということでした。それでも、もしエンジンを岸壁に降ろして 壊してしまったら、日本の ODA であっても会社が復旧工事をしないといけないのかなとか 思って、レポートはどういうふうにするか迷ったものでした。レポートのための写真を パシャパシャ撮って車に乗り込み港を後にしようとしたところで、警備員に引き止められ カメラを引き渡せと言われ、緊迫した場面になりました。カメラは写ルンですだったので、 取られても個人的には大きな損失はありませんでしたが、せっかくの港の調査の写真 なのでやはり死守しなければならず、ベンがその警備員に何やら言いつつ、その場を 収めてくれて事なきを得ました。たぶん small souvenir あたりをあげたのではないかと 思います。やはり、いかに後進国といえども港湾設備などは軍事的な要素もあり、 本来ならば写真撮影は禁止の場所だと、後で判りました。捕まってリベリアの刑務所に 入れられなくて良かったと後で思いました。

次に発電所の調査に行きました。国営のリベリア電力庁(LEC:Liberia Electricity Corporation)の発電所ですが、港とは違い民間人が簡単に出入りできるほどゲートもなく、 セキュリティーは大丈夫かとこちらが心配してしまうほどでした。以前アメリカの ODA で 建設された発電所で、米国の Fairbanks Morse の 2 サイクルのディーゼルエンジンが昔は4 台あったようですが、訪問時は 3 台残っているだけでした。無過給のエンジンで出力は 2MW で、外形は 18KU30(5MW)より大きかった。そこで新規の 18KU30 は既設の エンジン 1 台を撤去し、その基礎の上方を削って新たに基礎を継ぎ足してそこに設定する こととしました。撤去する 1 台のエンジンに関連した補機および配管を図面上に区別する 作業は結構大変で、2F 建てのエンジン基礎でしたが、1F の補機の周辺は黒い油まみれで、 クソ暑い中でのこまめな作業で大変なおもいをしました。C 重油の臭いというのは、最初は 臭いと思うが、そのうち慣れてくると心地よい感じがしてくるのは、麻薬性があるのかも しれない。発電所には 2 つの建屋があり、もう一つには、スルザーの2サイクルの どでかいエンジンが轟音を発しながら運転していました。発電所の敷地の北側には コンクリートのブロック塀がありました。1.5m ちょっとくらいの高さだったので、 塀向うが見えましたが、そこには掘立小屋みたいな民家があって、ここで暮らす人は 騒音は大丈夫だろうかと心配になりました。

昼食は、首都モンロビアの繁華街まで車で行きました。途中貧民街みたいなところを 通り、黒人のガキンチョたちが遊んでいたり、出店みたいな感じで服や日用品を売ったり している路地を抜けて中心街に入りました。15 分くらいだったでしょうか。そして、 モンロビア唯一の中華レストランに入ると、懐かしい東洋人の顔が出てきて、安堵感が しました。ウエイトレスは若いお姉さんで、話をしてみると中国出身でこちらにきて レストランを経営しているお父さんと一緒に居るとのことでした。しばらくすると お父さんという人が日本人が珍しかったのか、懐かしかったのか、厨房から出てきて話を しました。この店のホット&サワースープ(Hot & Sour Soup)は、その名のとおり、 酸っぱ辛くて、ドロッとしていて美味だったので、ほとんど毎日通って食べたのでした。 懐かしい!

食事をしているといきなり停電となり、エアコンが止まり、店内が暑くなってきたら、 お姉さんが扇子を渡してくれました。いかにも中国という絵柄の扇子でしたが、 しょっちゅう停電することから常備品なのだと感心しました。帰り際、会計をしてから この扇子をもらってもいいかと聞いたら、いいよということでしたので、貰って帰り、 その後この扇子がいろいろな場面で活躍したのは枚挙にいとまがないほどでした。

さて、タイトルに掲げた事件が発生したのは、ある日ベンの運転する車で、国道を移動中 のことでした。何やらひとかたまりの集団が国道沿いの道を、体を揺らしながら歩いて いました。その中に上半身裸で、顔から体まで白く塗りたくった少女みたいな人が数人 いました。(添付写真参照)これは珍しいものを見たと思い、やおら写ルンですを取り出し、 車の中からその少女をフライデー張りにパシャリ、パシャリ撮っていたら、その集団の中の オジサンがそれを発見して、こっちを指さして、なにか喚いて追ってくるではないですか。 道路はこういう時に限って、車はノロノロ動き、止まってしまったではないですか。 ベンも焦ったみたいで、迫ってくる集団に追いつかれそうとした時に、道路は動き始め、 ベンの車もその場を去って一難を脱しました。私もヤバイ雰囲気は感じていたが、後で ベンから説明を聞いたところでは、あの集団は土着信仰宗教の一つで、以前外人が捕まって その部族のところに連れていかれ、土の中に顔だけ出した状態で埋められたという話 でした。

その話を聞いてゾ~としたことを思い出しました! 九死に一生を得たという感じでした!チャンチャン(^O^)b

1987 年 12 月 10 日(木)~12 月 21 日(月)の出張にて。

29 歳の出来事。

では、次も海外出張エピソードのリベリア編が続きます。